春の暖かな日差しとともに、待ち遠しくなるのが「お花見」です。満開の桜の下で、家族や友人と囲むお弁当やお酒は格別な美味しさがありますよね。
しかし、楽しい宴会の最中に、ふと疑問に思ったことはありませんか?
「なぜ、日本人はこれほどまでに桜が好きなのか?」
「いつから宴会スタイルのお花見が始まったのか?」
実は、お花見の起源は奈良時代にまで遡ります。しかも、当初の主役は「桜」ではなく、全く別の花だったという意外な事実をご存じでしょうか。
この記事では、知っているようで知らないお花見の歴史や由来、そして農耕民族であった日本人にとっての本当の意味(予祝)について分かりやすく解説します。
歴史を知れば、今年の桜は今までよりもっと美しく、感慨深いものに見えてくるはずです。それでは、時空を超えたお花見の旅へ出かけましょう。
お花見(はなみ)とは?本来の意味は「予祝」という神事
現在では、桜の木の下で家族や友人と飲食を楽しむ「春の宴会」というイメージが定着しているお花見。
しかし、その起源を辿ると、古代日本における「豊作を祈願する神事」であったことが分かります。
農耕民族であった日本人にとって、春は一年の始まりであり、お米作りが始まる重要な季節でした。そこで行われていたのが「予祝(よしゅく)」と呼ばれる儀式です。
秋の豊作を先に祝う「予祝」の考え方
予祝とは、秋の豊作をあらかじめ祝ってしまうことで、現実の豊作を引き寄せようとする一種の呪術的な儀礼です。
昔の人々は、満開の桜の花を「秋に実る稲穂」に見立てました。
「今年もこれだけ綺麗に咲いたから、秋の収穫も間違いなく豊作になるだろう」と先に喜び、お酒や食事を神様と共にすることで、その年の豊作を願ったのです。
つまり、お花見とは単なる娯楽ではなく、神様をもてなし、一年の実りを約束する大切な宗教行事だったといえます。
お花見の歴史と変遷|いつから始まったのか?
お花見のスタイルは時代とともに大きく変化してきました。貴族の優雅な遊びから武士の威信をかけたイベントへ、そして庶民の娯楽へと広がっていった歴史の流れを時代ごとに見ていきましょう。
【奈良時代】お花見の起源は中国伝来の「梅」だった
お花見の歴史が始まったとされる奈良時代、実は鑑賞の対象となっていた花は桜ではなく「梅」でした。
当時、中国(唐)から伝来したばかりの梅は、貴族たちの間で最先端の文化として愛されていました。実際、日本最古の歌集である『万葉集』を確認すると、桜を詠んだ歌が43首であるのに対し、梅を詠んだ歌は110首も収められており、当時の梅人気の高さがうかがえます。
【平安時代】「梅」から「桜」へ変化した理由
平安時代に入ると、894年の遣唐使廃止をきっかけに、日本独自の「国風文化」が育まれます。これに伴い、人々の美意識は外来種の梅から、日本古来の野生種である「桜」へと移っていきました。
831年には、嵯峨天皇が神泉苑で日本初とされる桜の公式行事「花宴の節(かえんのせち)」を開催しました。これ以降、『古今和歌集』などで単に「花」と詠まれれば「桜」を指すようになるほど、桜の地位は不動のものとなりました。
【鎌倉・安土桃山時代】武士や派手好きの秀吉による大規模化
時代が下り、お花見は貴族から武士の文化へと広がります。特に安土桃山時代、天下統一を果たした豊臣秀吉は、お花見を盛大なイベントへと昇華させました。
奈良の吉野山に5,000人を引き連れた「吉野の花見」や、京都の醍醐寺に700本の桜を植えて行った最晩年の「醍醐の花見」は有名です。この頃から、単に花を愛でるだけでなく、盛大な宴会を楽しむスタイルが確立され始めました。
【江戸時代】八代将軍・徳川吉宗が庶民の娯楽へ変えた
現在のように庶民がお酒や食事を持参して、賑やかにお花見を楽しむようになったのは、江戸時代中期のことです。
この立役者となったのが、八代将軍・徳川吉宗です。彼は江戸の庶民の不満を解消するための娯楽政策として、飛鳥山や隅田川堤などに大量の桜を植樹し、花見の場として一般に開放しました。
これにより、お花見は一部の特権階級のものではなく、「春の行楽」として庶民の間に定着し、現在のスタイルへと繋がっています。
なぜ日本人は桜を見るのか?「桜」が選ばれた3つの理由
世界中に桜の木は存在しますが、国民行事としてこれほど熱狂的にお花見をするのは日本人だけです。なぜ日本人は桜に特別な感情を抱くのでしょうか。そこには、語源、美意識、そして信仰という3つの深い理由があります。
1. 語源「サ・クラ」に隠された田の神様の存在
桜(サクラ)という名前の由来には諸説ありますが、最も有力なのが「田の神様」説です。
古語において、「サ」は「田の神様(稲の神霊)」を意味し、「クラ」は神様が座る「御座(みくら)」を意味します。
つまり「サクラ」とは、春になって山から降りてきた田の神様が、一時的に宿る場所(木)を指していたのです。
農民たちは、桜の開花を「神様が降りてきた合図」と捉え、田植えを開始する時期を決める農業時計として大切にしていました。
2. 散り際の潔さと「もののあはれ」の精神
満開の絶頂から、わずか数日で散ってしまう桜の儚(はかな)さは、日本人の死生観や美意識に強く響きました。
平安文学における「もののあはれ(しみじみとした情感)」の象徴であり、武士の時代には「パッと咲いてパッと散る」姿が、未練を残さず命を燃やす「武士道精神」の美学として崇拝されました。
永遠に咲き続ける花ではなく、散りゆく姿にこそ美を見出す日本独特の感性が、桜を国花的な存在へと押し上げたのです。
3. 春の疫病を鎮めるための「鎮花祭」
古代において、春は生命が芽吹く季節であると同時に、疫病が流行りやすい恐ろしい季節でもありました。
当時の人々は「花が散る勢いに乗って、疫病神が四方八方に拡散する」と信じていました。そこで、花の散る勢いを鎮め、疫病の拡散を防ぐために行われたのが「鎮花祭(ちんかさい/はなしずめのまつり)」です。
現在でも奈良県の大神神社などで続けられているこの神事は、お花見のもう一つのルーツと言われており、桜の下で宴を開くことには「強い生命力を持つ桜の霊力を体に取り込み、邪気を払う」という意味も込められていました。
「花より団子」お花見に欠かせない食べ物の由来
風流に花を眺めるのも良いですが、現実には「花より団子」ということわざがある通り、美味しい食べ物もお花見の醍醐味です。ここでは、定番の食べ物に込められた意味や由来を紹介します。
三色団子(花見団子)の色が持つ意味
お花見の定番といえば、ピンク・白・緑の3色が可愛い「三色団子」です。この色合いには、日本の季節の移ろいが表現されています。
- ピンク:春の桜(または春の太陽)
- 白:冬の残雪(または白酒)
- 緑:夏の新緑(または大地)
冬の名残(白)から春(ピンク)が来て、やがて夏(緑)へと向かう情景を表しています。
また、ここには「秋」が含まれていません。これには「秋がない=食べ飽きない(あきない)」という、江戸っ子ならではの洒落(ダジャレ)と商売繁盛への願いが込められています。
桜餅やちらし寿司を食べる理由
【桜餅】
江戸時代、向島(墨田区)の長命寺の門番が、散った桜の葉の掃除に悩み、「桜の葉を塩漬けにして餅を包んでみてはどうか」と考案したのが発祥と言われています。これが江戸庶民の間で大ヒットし、お花見のお供として定着しました。
【ちらし寿司】
お花見弁当の定番であるちらし寿司には、縁起の良い食材がふんだんに使われています。
- 海老:腰が曲がるまで長生きする
- レンコン:先が見通せる
- 豆:マメに働ける
春の訪れを祝うと同時に、新年度の健康や将来の幸福を願うために食べられています。
まとめ:お花見の歴史を知れば、桜がもっと美しく見える
今回は、お花見の歴史や由来、なぜ日本人がこれほどまでに桜に惹かれるのかについて解説しました。
普段なにげなく楽しんでいるお花見ですが、そのルーツは豊作を願う「予祝」という神聖な儀式であり、貴族から武士、そして庶民へと長い時間をかけて受け継がれてきた日本の心そのものでした。
次に桜を見上げる時は、ただ「綺麗だな」と感じるだけでなく、「今年も春が来たことへの感謝」や、先人たちが桜に託した想いを少しだけ思い出してみてください。
歴史を知ることで、舞い散る花びらのひとひらひとひらが、今までよりも一層美しく、感慨深いものに見えてくるはずです。今年の春は、美味しいお団子と共に、日本人のDNAに刻まれた桜の物語に想いを馳せてみてはいかがでしょうか。